「福岡県の戦争遺跡」によれば、手向山砲台跡は下関要塞の砲台・堡塁の一つ。遺存状況は良い。郷土の歴史の一片として今後も大切に残してもらいたい遺跡の一つ。砲台は対艦船、堡塁は対陸戦の攻撃防御要塞。明治期の日本の国防重要地点として関門海峡が定められたことを受けて、明治20年(1887年)から関門海峡の両側に砲台・堡塁など19ヶ所(手向山砲台のほか、古城山砲台・堡塁、矢筈山堡塁(砲台)、笹尾山砲台、富野堡塁、高蔵(高倉)山堡塁が残存)が下関要塞として構築された。日清・日露戦争での防御に対応する予定であったが、実戦に使用されることはなく、明治末期には一部を除いて廃止された。手向山砲台は、S字状に湾曲した関門海峡の最南部の独立小丘手向山、標高76m付近にあり大瀬戸を護る役目で、明治20年(1887年)9月から砲台構築が始まり、同22年(1889年)3月竣工。砲台は同24年6月〜12月の間に24糎臼砲6砲座12門が北向きに据えられた。各砲座間に半地下式の倉庫が設けられた。観測所は東西に1基づつ設置され、下関側の田の首、筋山砲台と呼応したものになっている。明治末期に廃止。昭和に入っても小倉陸軍造兵廠防御のための砲陣地として使用され、太平洋戦争中は山頂を平らに造成して7糎高射砲4門を設置し高射砲陣地とした。探照灯台座、発電所も近くにあり、砲台から観測所、探照灯と一連のシステムがセットで良好に現存している