森鴎外作品「鶏」散歩森鴎外が小倉に左遷された時期を題材にした作品。石田少佐(森鴎外)が船で門司港に着くところから話が始まる。馬が横浜から船で別当(馬丁)と一緒に後から着く。森鴎外は離婚後に小倉に赴任したが物語では死別した為に独身と設定されている。物語は森鴎外本人である石田少佐がノーテンキに設定されたている。鍛冶町にある借家に住みながら、下女や馬丁と一つ屋根の下で暮らしている。彼らが米や野菜がくすねる話がほのぼのとした雰囲気で展開する。独身であるが為、仕事に出かけた後、家の中を彼らに好きなようにされていた姿が描かれている。石田少佐は、若い下女を雇っていたが妙な噂が立つ事を恐れて下女二人を雇い一緒に住ませている。現実世界では森鴎外がその一人に男の子を産ませた、という話がある(この謎を松本清張が探っている話もまた面白い)。物語では森鴎外が住んだ鍛冶町の借家の風景が詳しく書かれている。なお、石田少佐(森鴎外)は暇な休みにやることなく小倉の街を歩いているが、小倉の街の風景はほとんど書かれていない。精々いくつかの地名が書かれている程度で、小倉は何も面白いものが無い、と言うように簡単に書いて終わっている。もう何度も訪れている鍛冶町の借家に小倉の散歩で立ち寄りました。昔も今も同じ鍛冶町であることがいい。この家の西隣にある南国ビルに入っていたバブによく飲みに行った事を思い出す。
田舎庵で食事のあと、縁側でゆっくりさせてもらった。旧居は静かで少し涼しいような気がした。
夏に行くとめっちゃ蚊に刺されますので覚悟を笑
言わずと知れた文学者(小説家)でもあり、陸軍軍医でもある。小倉に左遷された時にここを住まいとしている。二年も住まわないうちに近くに引っ越しをしている。我輩がどうのこうのと言うよりも賢明なる読者諸氏ならば既にご存知であろうから釈迦に説法かもしれん。佇まいを見て頂きたい。温故知新。やはり日本家屋の良さが感じ取れるのではなかろうか。畳が良いだろ。夏は涼しいぞ。しかしながら・・我輩の身長は180を超えるものだから鴨居にあたる。武士の時代にあって部屋の中で刀を振り回しても鴨居に当たるようにしてあるからだ。周辺は飲み屋街である。鴎外も今の時代左遷されてきたなら吞兵衛になっていたかもな。散歩がてらにはこのギャップが面白いかもしれんな。
森鴎外が陸軍の医者として北九州に赴任したときの住居らしいです。無料で中に入れ、普通に開放されていているのですが、よその家にお邪魔するような感じがして、近くにいるけどなかなかここに訪れることはない。
小倉の街中に有りながら、心落ち着ける場所ですね!誰でも入館料なしで見て廻れます。尋ねて見る価値有りです。
建屋はほぼ明治当初と変わらず、往時が偲ばれタイムスリップしたような感じでした。建屋にも無料で入れます。
お昼に行きました。○○旧居にありがちな、ひっそりしたところにありますね。周囲は塀や垣に覆われていますが、風通しが良くて夏のわりに涼しかったです。鴎外ゆかりの書籍が販売されている他、音声ガイド、家の間取りや鴎外の来歴等が記載されたパンフレットの配布、記念スタンプ(赤、青で絵が違う)がありました。往路で、この家が舞台とされる『鶏』を読みましたが、佇まいや間取りが書いてあるとおりで感動しました。
斎藤茂吉が小倉の森鴎外を偲んで詠んだ歌がある「春いまだ寒き小倉をわれは行く鴎外先生おもひ出(いだ)して」(斎藤茂吉)
あの界隈にして、このたたずまい。ほっこりします。
小倉駅から少し商店街の中を歩いて行けます。趣を残したままの姿です
小倉の飲み屋街にあります。
第12師団軍医部長として赴任した森鷗外は、明治32年6月から同35年3月まで小倉に居住しました。その前半は鍛冶町の家にあり、後半、33年の暮れから第1師団に転任して東京へ去るまで、京町5丁目154番地に住んでいました。しかし京町の旧居は現在の小倉駅の開設にともない、駅前広場の一部となった。
繁華街の中にある為、周辺景観は残念ですが、鴎外好きの方には是非、訪ねていただきたい場所です。
鍛冶町の繁華街にあります。無料でした。
歴史を学ばずに行くと ただの古民家です。
歴史を感じることができる空間です。
こじんまりとしていて素敵でした
無料で見学出来るよ
なんか、寂しさあり。
森鴎外旧居の襖張り替え障子を北九州市の依頼で張り替えました