末森城は、織田信長の父信秀が、三河の今川に対する防備を目的に、1548(天文17)年、東山の丘陵の地形を利用して作った城。しかし、翌年信秀は病死、信長の弟信行が城主となったが、信長と対立した。まもなく、信行は信長に殺され、1558(永禄元)年廃城となった。今では、境内にある「末森城址」の石標と空堀が昔の名残をとどめている。なお現在、丘の上には城山八幡宮が祀られている。(Wikipediaから引用)末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10-16メートルの空堀を備えていた[11][12]。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。現在でも深さ7メートルほどの空堀跡など、遺構がよく残っている。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張を支配していた織田信雄が小牧・長久手の戦いに備えて整備したものと考えられている。現状本丸跡地は城山八幡宮の神域、二の丸跡地には愛知県が建設した旧・昭和塾堂が建っているが、後に城山八幡宮に払い下げられ、建物は現在愛知学院大学に貸与されている。また城山八幡宮内に末森城址の石碑が建っており、城の名は末盛通として残った。
織田信秀が築いた最後の居城です。信秀はこの城で最期を迎えました。平城である古渡城から平山城である末盛城に移ったのは、今川に対する備えと云われています。信秀は生涯において、居城を勝幡から那古野、古渡、末盛と移しています。そして息子の信長も居城を那古野から清洲、小牧山、岐阜、安土と移しています。このように、居城を移した親子は他にはいません。信長が目的に合わせて居城を移すという政策は父・信秀から学んだものと考えられています。信長もさることながら、父の信秀も優れた武将だったようですね。城跡はかつての空堀や土塁の跡がよく残っています。また城跡からの眺めはとても良いです。信秀や信長に想いを馳せながら散策するにはもってこいの場所だと思います。
しっかりと遺構が残されていて、街中と思っていたのにびっくりでした
末森城(すえもりじょう)は、室町時代末期、尾張国愛知郡鳴海荘末森村、現在の愛知県名古屋市千種区城山町にあった日本の城である。縁起の良い名ということで末盛城とも書かれた。末森城は、東山丘陵地の末端に位置する標高43メートルの丘に、東西約180メートル、南北約150メートルの規模で築城された平山城である。地形を利用して斜面の中腹に幅10-16メートルの空堀を備えていた。そのうちの内堀北の虎口には、構造的に非常に珍しい「三日月堀」と称される半月形の丸馬出があったらしいが、現在は残っていない。現在でも深さ7メートルほどの空堀跡など、遺構がよく残っている。馬出や総構えの構造が見られることから、現在みられる遺構は1584年頃、当時尾張を支配していた織田信雄が小牧・長久手の戦いに備えて整備したものと考えられている。
織田家本城です。跡地は丸々城山八幡宮となっています
織田信秀(織田信長の父)が死去した場所らしい。
織田信秀の居館跡として有名な城址です。堀が見事に残っています。
御城印が種類有りすぎてお金かかるよ😭
信秀公の築城によるもので、名前の通り末長く盛ることはなかったけれども、当時を偲ばせる堀の後は確認することができる。言われなければわからないけれども。やはり山城の跡だけあってなかなかの眺め、東山タワーを臨むことができる。
織田信長の父織田信秀の居城跡。街の中にありながら土累や空堀がよく残ってる。
織田信秀公(信長公の父)が織田家の本城として築いた平山城。お市の方が生誕した可能性が高い、と伝わっている。又、柴田勝家もこの城で仕えていた。土塁や空堀も残っていました。
信長の父、信秀が最後に居城して城。
初詣で長蛇の列でした。
城山八幡宮になっています。