とても高台にある砦跡です。主に竹藪で、石碑のある所以外はあまり入れません。周辺は大きなスズメバチが沢山飛んでいました。
JR大高駅裏手200m山手に鷲津砦がありました☀️更に登ると鷲津公園🏞️遊具広場です🚰水場がありました。大高城から丸根砦へ行く中間地点。歩いて行きましょう‼大高城の北東約700mの丘陵上に築かれた砦で、大高城の今川勢を牽制するために織田方によって永祿2年に造られました。丸根砦とともに大高城を頂点とするこの鷲津砦は、2等辺三角形の底辺の両端に位置しています。また、大高と鳴海を結ぶ交通路を押さえる位置にあり、規模は東西25m南北27mあったという(寛文村覚書による)永祿3年(1560年)5月19日、桶狭間の戦いの緒戦には、飯尾定宗らが立てこもり、今川の重臣朝比奈泰能(あさびなやすよし)の軍勢に攻められて全滅したといわれます。現在鷲津砦跡の境は明確ではないが鷲津砦跡の碑石が建てられています。大高城跡とともに昭和13年に国の史跡に指定されました。
永禄二年(1559)織田信長が今川義元に攻略された大高城に対抗する為築いた砦。この砦は大高城を頂点として丸根砦と共に二等辺三角形の底辺の両端に位置している。国の史跡に指定されている。碑が有るだけ、ですが高台に有るので眺めが良いです。新幹線、JRの電車が見えます。
住宅地の中に公園として史跡が残されています。
鷲津砦(わしづとりで)は、名古屋市緑区にあった砦。織田信長によって築かれ、桶狭間の戦いの前哨戦が行われた。大高城・丸根砦と共に1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。尾張に侵攻した今川軍は鷲津砦と丸根砦に攻撃を開始した。その報せを受けた信長は清洲城から出陣したが、熱田神宮に差し掛かった時には、すでに両砦は落城したらしく、煙が上がっていたという。その日の桶狭間の戦いで義元は討ち死にして今川軍は尾張から撤退し、今川氏から独立した三河の松平元康との間に清洲同盟が成立したため、鷲津砦が再び使われることはなかった。
大高西に車を停めて、徒歩で砦公園へ行く。すぐ、砦後の標識があった。しばし、戦国武将に思いを馳せゆったりときて時間を楽しみました。
桶狭間の戦いツアー4大高城を囲んでいた織田方の砦です。丸根砦とともに、激戦のうえ陥落しました。当時が偲ばれます✨
桶狭間の合戦で良くでてきませんか?私だけですか…
今川方の大高城を攻撃するために織田信長が築いた砦の跡。大高城は南西方向700mくらいのところ、目と鼻の先に見える。桶狭間の合戦は、今川義元が上洛を目指して尾張に侵入して発生したといわれることがあるが、鷲津砦の存在などを総合的に考えると、信長がちょっかいをだしてきたところを今川が咎めに行ったと考える方が自然なような気がする。砦は、現在や遊歩道などが整備されていて、散歩にちょうどいい。ここに陣取っていた守備隊が全滅した過去があるとは思えないほど、閑静な場所だ。
信長の原理を読んで、足跡を辿ってみました。他のお城や砦と近いので、よく警戒されずに本陣に行けたな〜、と感心しますよ(^^)車が動きやすいですが、住宅街で駐車に苦労しました。
本当の場所は案内板、公園の位置とは異なるので注意(私有地のため場所は書けない)。南、寺側斜面に無理くり堀かなと思えないものもあるが絶対違うので。
昔、ここに砦があったというだけで全く痕跡はわからない。遺跡見物を期待する人はいかないほうがいいです
丸根砦から非常に近い位置にある。ここも激戦が繰り広げられたとは思えない住宅街の中に現れる
鳴海城、善照寺砦、丸根砦、大高城との位置関係がとても近いと感じた。桶狭間合戦当時のこの付近一帯は織田・今川双方の勢力が交わる最前線だった。今は薮で囲まれた公園
何にもないのと、坂がきつい
街中に残る国指定の遺跡桶狭間の合戦に興味のある人にはお奨めです。
桶狭間合戦の頃、織田信長が築いたと言われます。
桶狭間の戦いの前哨戦がここで展開。今川方の大高城の抑えとして築かれたらしい。
仕事の途中立ち寄りました❗️
暑いのに男の人がテントを張ろうとしていた
大高城址・丸根砦とセットで見るべし
とてもくつろげます
あまり何も残っていません。