古代歴史好きにはたまらない場所でした。
日本書紀に天武元(672)年6月27日、「於朝明郡迹太川辺望拝天照大神」と記されているとのこと。天武天皇が壬申の乱の際、吉野宮から伊賀、伊勢を経て、自身の地盤である美濃へ行く途中に、この地から伊勢神宮を遥拝し、戦勝祈願をした伝える。天照大神に願ったのか、太陽を願ったのかは、明らかではないようです。ここには「天武天皇のろしの松」と伝承された老松がありましたが平成14(2002)年に枯死してしまい、平成18(2004)年に地元で槇が植樹されたとのこと。
手入れはされているようです
『日本書紀』によると、天武天皇の元年(672)に勃発した壬申の乱の際、大海人皇子は、奈良の吉野を離れて伊賀に入り、鈴鹿から三重郡家(ぐうけ)(三重郡の役所)に進み、さらに朝明郡(あさけぐん)の迹太川(とおがわ)のほとりで天照大神(あまてらすおおみかみ)に戦勝祈願したといいます。御遥拝所跡の碑が立つこの地は、江戸時代の人がその場所であると考えたところです。慶応二年(1866)に造立された石灯籠には「天武天皇呪志(のろし)の御松斉宮」とあり、確かに近年まで松の古木が立っていました。そのためこの地が御遥拝所跡として昭和十六年(1941)に指定されました。この松もついに枯れ、それに替えて植えられた槇の木にかつての面影を偲ぶだけとなりました。-四日市市ホームページより-四日市市には朝明郡役所跡である久留倍官衙遺跡もあります。そこから近い場所にあるこの地も、歴史ロマン溢れる場所です。でも住宅街の一角に本当にひっそりと佇んでいますから、調べたりしないと絶対に出てこない場所ですね。