坂戸市教育委員会は 多和目城 としている。古文書等は 田波目城 毛呂城 田波目大かけ城 などが主な名称である。城山は標高113.4m 頂上が平坦で土塁 空堀 腰曲などが遺ります。中世時代 この西方に宿谷という地名が残る。宿谷の滝 宿谷川 そしてなにより宿谷氏の末裔も居られる。この北方の毛呂氏と共に この城を守護したという言伝えが遺る。
500年前の戦国時代、狭山市の柏原地区にも同じように、南側が見渡せる「柏原城址」があります。地形がそっくりです。どちらも小田原城方面が見渡せるので、南からの小田原の北条氏一族を警戒する拠点だった気がします。とすると、当地あたりは、上杉氏の領地か?当地も、そんなに広い場所ではないので、南側の高麗川を見渡す 、警戒・監視の「見張り所」的な感じもします。今から500年前、普段は、ここは数人が交代で、高麗川を警戒していて、いざとなれば近郷の「農兵」(現在の青年団?)らが武具持参で、この場所に、「それ、行け」と参集していたかと思うと、昔の人は大変だったな・・・・・・と思います。ここは坂戸市の水源地井戸もあるので、坂戸市は周辺の環境整備に努めるべき場所でもあります。
大変貴重な森だとは思うが、森の中に得体の知れない産廃業者の会社があるなど景観ぶち壊しで自然公園としては中途半端。何故この会社の設置を許可したのか不明。当時の県知事とか市長にでもウマク持ち掛けたんだろうか等と憶測。更に下ると「新しき村」など里山ならではの牧歌的な場所もあるが、ここも無風流なソーラーパネルを設置していて、折角の自然美のぶち壊し。悲しいかな民度の低さを感じざるを得ない。
ハッキリ言ってよくわからない史跡
城跡としては今ひとつ。ただ、良い里山で夏は川遊びできます
頂上がどこかわからない