旧両国橋・広小路跡旧両国橋は現在の両国橋の下流約50mのこの辺りに架かっていました。完成は万治二年(1659)12月。明暦三年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ、芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋、食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街となりました。寛保二年(1742)の調査では一日に2万人以上が往来したとされています。
月が綺麗でした。
旧両国橋は現在の両国橋の下流約50メートルの所に架かっていました。完成は万治2年(1659)12月。明暦3年(1657)の大火が大災害となったため、幕府が防災上の理由から架け、武蔵と下総の国を結ぶ橋なので、両国橋と呼ばれました。橋の上は、四方が眺望できる絶景の場所で、近くは浅草の観音堂、遠くは常陸の筑波山まで見えたようです。橋が架かったことで交通の要衝となるとともに、橋の袂には火除け地としての広小路が設けられました。西側(日本橋側)は「両国広小路」といわれ芝居小屋や寄席、腰掛茶屋が立ち並び、東側は「向こう両国」と呼ばれ、見世物小屋や食べ物屋の屋台が軒を連ねる繁華街でした。しかし今はその当時の面影は無く駐車場や立て看板があるだけです。
徳川家康は千住大橋より下流域の架橋を禁じてたそうです。それというのは千住は武蔵国の内だが、その下流域は武蔵国と下総国の国境であり、家康の時代には下総国や上総国は豊臣配下の武将の領地だったからだ。明暦の大火(振り袖火事)により江戸の焼死者は十万ともいわれ、避難路の必要から橋を設けることになったが、その時代には下総国や上総国側は幕府の旗本や譜代大名の領地になっていたので架橋に問題はなかったらしい。この橋は❮大橋❯という名だったが、庶民らにその名は浸透せず、国境の橋ということで両国橋と呼ぶようになり、それが後に正式名称になったそうです。橋の両端に火除け地の広小路が設けられ、西側を❮両国❯東側を❮向こう両国❯と呼んだそうです。この橋の出現により本所地域の開発が進み、30年後にその下流に新大橋が架けられたそうです。
古地図を見ると、両国橋は現在地よりも下流にあったことになっており、これはその証拠なんでしょうね。果たしてワザワサ見に行く価値があるのかは人の価値観によるのかも。
サイコーにご機嫌な場所だ‼️
芝居小屋や寄席、茶屋、見世物小屋、屋台などが軒を連ねる繁華街だったそうです。
橋の模型でもあるといいな。
江戸時代の大繁華街。当時に想いをはせます。