説明板が建っており下のように書かれてました。<江戸の町 -駒留橋跡ー>駒留橋は、この辺りにあった旧両国橋北側の入り堀に架かっていた長さ二間半(約四・五メートル)、幅二間(約五・四メートル)の小さな石の橋で、藤代町と東両国広小路を結んでいました。その堀の幅はもっとも広いところが四間(約七・二メートル)で、奥に行くほどだんだんと狭くなっていました。本所七不思議の一つである片葉の葦が生えていたので、別名、片葉堀といわれ、盛り場の近くにありながら、夜になると寂しい場所でした。両国の繁華街がもっとも賑やかになる時間帯でもこの橋の周りは森閑としていたと伝えられています。そのせいか、夜になると、橋詰にあった自身番(町内の私設交番)の前に夜鷹が集まり、道行く人の袖を引いていたようです。他にも二つ、説明板がありました。<両国物語 -片葉の葦ー>駒留橋が架かる入り堀に生える葦は、同じ方向にしか葉を出さなかったことから、片葉の葦と呼ばれていました。入り組んだ地形の風の吹きこみ方が影響していたと考えられますが、当時はそれが、本所七不思議のひとつとされていました。その由来は・・・昔、本所横網町に住んでいた留蔵という男が、三笠町のお駒という娘に惚れました。留蔵はお駒を自分のものにしようと、あの手この手で近づきますが、お駒は一向になびきません。腹を立てた留蔵は、お駒を殺害し、片手片足を切り落として堀に投げ込みました。それ以来、ここに生える葦は、すべて片葉になったというものです。当時、あしを吉原の語源となるほどこの辺りにはたくさん生えていました。<江戸の町 -藤代町跡ー>かつてこの辺りにあった町名です。その由来は……。享保年間(一七一六~三五)、紀伊生まれで麹町に住んでいた毛利藤左衛門は、自分の支配地である西葛西領猿江村の入り堀二万五千坪を自費で開墾し、「毛利新田」と呼ばれていました。しかし、これが幕府の貯木場として、残らず召し上げられ、その代わりにこの土地を賜ったのです。藤左衛門が代りに賜ったことから藤代町と呼ばれています。回向院や向島に通じる要衝だったため、商家が軒を並べるかなり賑やかな場所で、本所の入り口にふさわしい繁華街でした。
旧両国橋北側の入り堀に架かっていた小さな石の橋の説明板です。