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森陳明墓
日本, 〒511-0045 三重県桑名市伝馬町53
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森陳明墓

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幕末の桑名藩を偲ぶ史跡の一つ。幕末には松平定敬が藩主だった。高須藩主、松平義建の十男として誕生し、安政六年(1859)に桑名藩松平家の養子となり桑名藩十一万石の当主になった。定敬の兄、松平容保が会津藩主の養子となり、元治元年(1864)には京都守護職に任じられ、桑名藩主の定敬も京都所司代に任じられ、ともに京都の治安維持にあたった。慶応三年(1867)に、幕府は大政を朝廷に奉還した。松平定敬は京都所司代を罷免され、彼に従った桑名藩士を伴って、徳川慶喜とともに大阪城に入る。翌慶応四年正月に鳥羽伏見で戦いが起こると、徳川方の幕臣たちと共に戦いに参加するも、薩摩長州を主力とする倒幕軍に桑名藩が大敗を喫した。さらに桑名は賊軍になってしまった。桑名藩目付であった森陳明は亀山藩の江戸藩邸を訪問した翌日、亀山脱藩者を伴い、上野の彰義隊に参加した。しかしこの戦いに敗れると榎本武揚の艦隊で函館に逃れた。そこでも激しい戦いを繰り広げていった。松平容保、松平定敬の兄弟藩主は、慶喜に従って江戸に去った。三月になると定敬はさらに船で函館廻りで越後柏崎(桑名藩領の飛び地)に入る。官軍が迫ってきたので会津に向かい、八月には会津城下の激戦で米沢に脱出。米沢も官軍に降伏すると福島、仙台を経て函館の五稜郭に入り、榎本武揚と合流した。函館五稜郭で脱籍徳川家臣同盟の桑名藩士、藩主の松平定敬、そして新撰組に入っていた森陳明たちが揃うこととなった。五稜郭の敗色が濃厚となってから、松平定敬は五稜郭から脱出した。明治政府は官軍に反逆した者を比較的寛大に処した。しかし旧幕側の会津と桑名はもっとも憎い朝敵で、落城の直前に藩主が脱出して恭順しただけで罪を許すことはできず、森陳明は桑名藩の逆賊の汚名を一人で背負い、明治二年に刑場で処せられた。辞世の句は「なかなかに惜しき命にありながら君のためには何といふべき」恭順した松平定敬の方はは明治五年に罪を許された。桑名城跡には定敬が建立した戊辰戦役の犠牲者を弔う石碑、十念寺には森陳明の墓がある。

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