国道1号線を走り、又木茶屋前の🅿️🚗駐車場に🚗車を停めたら長良川遊歩道がありました☀️散策していたら🏯長島城跡がありました‼️桑名市立長島中部小学校の中にありました☺️長島城は、文明年間(1469年~1487年)に伊勢国安濃郡の長野氏一族と伝えられていますが、伊藤重晴が長島を治め築城したと言われています。その後、長島北部の杉江にあった願証寺が浄土真宗の一大拠点となると、伊藤氏は滅ぼされ、長島城も願証寺の支配に入りました。そのため、長島一向一揆のともには織田信長の攻撃を受け、天正(1574年)に包囲され敗れます。江戸時代に入ると、菅沼氏・松平氏が藩主となりましたが、増山正弥が元禄15年(1702年)に長島2万石の藩主になると明治維新まで増山氏が続きました。城の建物は残っていませんが、大手門の一部が蓮正寺(長島町又木)の山門として使わているほか、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上のクロマツが今でも城跡の名残として、その威容を誇っています。
小学校のそばに立て看板だけでした歴史好きな私にとっては来たことだけに意義がありました。何も過去を忍ばせるものはなかったです。遠方からわざわざくる価値はないですねなく
城跡の隣に平和公園があり、戦没者慰霊碑と伊勢湾台風犠牲者の慰霊碑があります。お参りしていただくなら、御霊が喜ばれると思います。
長島城(ながしまじょう)は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市長島町)にあった日本の城。長島藩の藩庁が置かれた。長島城の起源は、寛元3年(1245年)、藤原道家が館を築いたことにさかのぼる。文明14年(1482年)、北勢四十八家の一人、伊藤重晴によって城が再建された。元亀元年(1570年)、一向宗・願証寺の住職・証意(蓮淳の曽孫)によって伊藤氏一族が追放され、長島一向一揆の拠点となった。その後、織田信長によって攻略され、滝川一益の居城となった。賤ヶ岳の戦い後、織田信雄の居城となるが、1586年の天正地震で天守が倒壊するなど甚大な被害を受けたため、清洲城に移った。江戸時代に入ると、菅沼氏が2万石で当地に封じられ、長島城を改修し藩庁として用いた。元和7年(1621年)、菅沼氏が移封されると、長島藩は廃藩となり、長島城も一時廃城となった。慶安2年(1649年)、久松松平家の松平康尚が那須藩より1万石をもって入り、長島藩が再興された。元禄15年(1702年)には、4代将軍家綱の生母の弟増山正利の子の正弥(まさみつ)が常陸下館より2万石で移され、以後8代続き明治維新に至った。この間に城郭は順次拡大されたが、天守は上げられなかった。明治5年(1872年)、廃藩置県と共に廃城となった。
寛元三年(1245)、朝廷内で失脚して配流となった前摂政藤原道家が当地に館を築いたことが長島城の起源とされている。長島一向一揆の本城、長島藩の居城を経て現在長島中部小学校・中学校地となっている。天正二年(1574)、信長は七万の大軍と九鬼水軍を動員し、悩ませられ続けてきた長島一向一揆を完全に制圧しようと出陣した。激戦ののち、籠城の老若男女二万が不幸な運命をたどったことは有名である。一揆討伐後の長島城には北伊勢の地を与えられた滝川一益が入った。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦後は、徳川譜代の菅沼定仍が二万石で入り長島藩が成立。菅沼氏は二代続き、その後、幕府領、松平氏二代の後、増山氏となり、八代続いて明治を迎えた。
現、長島中部小学校