吉田松陰先生は、われら日本が欧米列国から植民地されるわが国の危機を一歩早く指導してわれら日本を護った大功労者です。松下村塾の塾生は、久坂玄瑞と高杉晋作二人の活躍を中心にして明治維新後は初代総理大臣の伊藤博文公、明治で大活躍した山縣有朋公や入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義など門下生の活躍が明治維新大日本の繁栄につながりました。明治維新の礎になり、長州からわれら祖国日本国のためにわれら日本人の誇りです。わが国に貢献した尊敬されている先人がお札になるべきだとおもいます。吉田松陰先生は靖国神社にも祭られていますし、自らの松陰神社もございます。
安政6年(1859年)、梅田雲浜が幕府に捕縛されると、雲浜が萩に滞在した際に面会していることと、伏見要駕策を立案した大高又次郎と平島武次郎が雲浜の門下生であった関係で、安政の大獄に連座し、江戸に檻送されて伝馬町牢屋敷に投獄された。評定所で幕府が松陰に問いただしたのは、雲浜が萩に滞在した際の会話内容などの確認であったが、松陰は老中暗殺計画である間部要撃策を自ら進んで告白してしまうこの結果、松陰に斬首が宣告され、安政6年10月27日(グレゴリオ暦1859年11月21日)、伝馬町牢屋敷にて執行された。享年30(満29歳没)
身はたとひ武蔵野野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂吉田虎次郎松陰の志はその後、激しい紆余曲折を経て、倒幕、明治維新、富国強兵、日清・日露と花開き、その後は満州、五一五、国際連盟脱退、永田鉄山暗殺、二二六、日独伊軍事同盟、盧溝橋、真珠湾へ … 気がつくと流れに従う者ばかりで、国家の暴走を止めることも出来るエリートがすべて消えてしまっていました。戦時中、吉田松陰は国を思う日本人の理想像として利用されることがありましたが、教育者でもあった吉田松陰はどう思っただろうか。やはり教育は決して一個人に終始させない、世代を超えたエリートの連鎖の仕組みが必要ではないかと思います。ここでいうエリートとは国家や世界平和の為には生死をも省みない人間でなければなりません。子孫の為に美田を買うような人間ではダメです。
こんなところをふと見つけました
吉田松陰の最期の場所。
松陰先生臨終の地 公園になっていてほっこり 合掌
現在は、十思公園になっています。江戸時代の末期に小伝馬町牢屋の中で、大老井伊直弼の(安政の乱)で尊王攘夷等の為、牢屋にて斬首されています。
吉田松陰先生は処刑場の回向院でなくここの伝馬町にて処刑されて、南千住の回向院に送られました。
歴史を感じます。
十思公園内の一角に碑があります。