皆さんは夕方の定刻になると、どことなく「夕焼け小焼け」のメロディーが聞こえてくる経験がありませんか。地域によっては、そのメロディーが異なるようですが。これは、ある時刻を知らせるものでしょうか。もう子供たちはお家に帰りなさいのサインなのでしょうか。実は、防災行政無線といって、緊急時に使用できるために、試験放送を毎日しているのだそうです。こうして、毎日定刻に一定の音を聞いていますと、まるでパブロフの条件反射のように、生活サイクルに一つの区切りや意識が生じてきますね。江戸時代、このような防災の意味ではありませんが、純粋に「時を知らせる」目的で、朝・昼・晩の三回を鐘で知らせていました。その事によって、長屋の門が定刻に開閉されたり、生活に規則正しいリズムの時間観念を持つようになったのです。その鐘は9ヶ所とも11ヵ所とも言われていますが、どちらにせよ、一番最初に撞かれるのは、日本橋石町(こくちょう)の鐘でした。セイコー社のブログによりますと、①本石町 ②上野寛永寺 ③市ヶ谷八幡 ④赤坂田町成瀬寺 ⑤芝増上寺 ⑥目白不動尊 ⑦浅草寺 ⑧本所横堀 ⑨四谷天龍寺で、この順番で前の鐘の音を聞いて順序よく鐘を鳴らしていたそうです。現在、「石町の時の鐘」は小伝馬町の十思公園に移されて、除夜の鐘に鳴り響かせていますが、鐘の来歴などは跡地に設けられている説明板でお分かりになれます。
江戸時代の一日は、明け六つを知らせる鐘の音から始まった。最初に捨て鐘を三回鳴らして時を告げる合図をしたのち、時刻の数だけ鐘が撞かれた。時の鐘は寛永三年(1626)に現在の日本橋石町(こくちょう)に設けられたのを皮切りに、幕末までに浅草寺・寛永寺・目黒不動など10か所以上に設置された。人々に時刻を告げる方策として、江戸市中に「時の鐘」が設置された。江戸城で太鼓が鳴ると、石町の時の鐘がまず撞かれ、その音を聞いた近くの鐘楼が順次、鐘を撞いていった。
江戸時代にはこちらに小伝馬町の牢獄があり、同時に時の鐘がありました。こちらには吉田松陰の終焉の地と言う石碑もありました。江戸時代のこの鐘はまず江戸城内の鐘がなり江戸しないの鐘がある場所の鐘が叩かれます。江戸幕府から時計のようなものが支給されていたみたいです。
日本橋石町(こくちょう)にあった時の鐘の跡。この鐘の聞こえる範囲の町からは、人件費・施設維持費などを徴収していた。
十思公園内にありますが、元々は別の場所にありました。
吉良邸討ち入り前に日本橋に潜伏していた赤穂義士大石内蔵助もこの鐘の音を聞いていました。