日本寺院のような外観だが、鉄筋コンクリート造りで、木造建築とは違った重厚さが感じられる建物。内に入ると、講堂のようでも、また教会のようでもあり、和洋折衷の造りであることがわかる。一応、開放扉の右側が入口、左側が出口と指定されており、入口右手にビデオ解説コーナーがあり、そこから建物を左回りに観覧、礼拝する順路のようだ。入口右側には震災関連の絵画、左側には東京空襲関連の写真が展示されており、災禍の悲惨さを後世に伝えている。中央の祭壇には、大きな位牌が二つ並んでおり、どちらかが関東大震災の犠牲者、別のものが合祀された東京空襲の犠牲者の位牌となっていると思料する。絵画、写真の展示位置からすると、向かって右側が震災、左側が空襲の犠牲者の位牌かな🤔。建物の建築デザイン一等案は、この建物よりも西洋風だったため選考から外れ、審査員だった伊東忠太氏の監督の下このように建築され、1930(昭和5)年に完成したとのこと。犠牲者を慰霊すると共に災禍の悲惨さを記憶に留め、かつレトロな近代建築の無料鑑賞もできる場所となっている。頂かなかったが、横網町公園内慰霊協会事務所で、御朱印(300円)も頂けるようだ。
地震の被害がよくわかる塔の中にはお骨が沢山あるそうです。隣の資料館も見に行ってください。日本の都心に住む人は特に見に行くべき
東京都慰霊堂のある横網公園は、もともと陸軍被服廠のあった場所で、大正11年に陸軍から東京市が譲り受け公園の工事を進めていて、更地になっていたため本所周辺の関東大震災の被災者が大勢避難していたところに、火災旋風により、火の粉が運び込まれた家財道具などに飛び火し、炎の竜巻になって瞬く間に燃え広がり、38000人もの人々が焼死した場所です。震災による行方不明者を除く死亡者が確認できただけで東京市内で74000人だったそうですから、この狭い公園の一角だけでその半数以上のを締めていたようですからすさまじい光景だったようです。そんな大勢の被害者がこの地で出たこともあって、その後公園内には、関東大地震による遭難死者約5万8000人の遺骨を納めるため1930(昭和5)年にこの慰霊記念堂が建設されました。この計画に当たリ設計コンペを行い、採用されたのが東大工学部の辰野金吾に続く2代目のボス伊東忠太教授でした。彼の代表作作としては、明治神宮、平安神宮、湯島聖堂、築地本願寺、靖国神社等の神社仏閣を中心とする建物のほか大倉集古館等の宗教色の強い建物を、数多く手がけています。有名な話ですが、妖怪マニアで彼の手がける建物には、彼の想像から生み出された動物や妖怪を必ず取り入れています。人はそれを「伊東忠太動物園」と呼んでいます。
東京は関東大震災、太平洋戦争の空襲から復興した不死鳥のような都市です。しかし、現代の東京にはこのような先人の方々が乗り越えてきた歴史を感じる場所は少ないです。この場所では、関東大震災、太平洋戦争で亡くなった方々の慰霊堂ですが、亡くなった方々を追悼すると共に、私達の歴史を学べる場所でもあります。天井近くの壁に描かれた絵画をじっくりと見て下さい。そして、私達の歴史を忘れないように、記憶を受け継いで行く場所でもあると思います。
無料で拝観できるのが申し訳ないほどの施設です。この季節とてもきれいな景観でもあります。是非訪れてみることをおすすめします。
横網町公園にある東京都慰霊堂です。堂内の右側に入ると椅子とモニターがあり、東京大空襲当時の映像を観ることが出来ます。
関東大震災、東京大空襲で亡くなられ引き取りされてない遺骨が納められている三重塔、資料館、慰霊堂近くに来た時はよって手を合わせて欲しいです。下町育ちの一個人の意見です。
忘れてはならない慰霊施設。
大正12年9月1日に発生した、関東大震災で、犠牲になられた方々、又昭和20年3月10日東京大空襲で、犠牲になられた方々を、慰霊する慰霊堂。(合掌)
【東京都選定歴史的建造物】選定は「東京都慰霊堂」...大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。・・・建設当初は関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。
戦争よる人災、関東大震災による天災等のたくさんの被害者の方々を鎮魂、祀っています。外観はお寺のようですが、室内は教会のようにズラリと席が並び、高い天井と広い空間に厳かな空気を感じます。敷地内の別棟にその当時の資料を展示する施設も有ります。平和ボケした方は一度訪れてみてはいかがですか?都営大江戸線の両国駅が便利です
関東大震災の慰霊堂です。何故ここなのかは分かりませんが、毎年行われます。江戸時代の大火事は両国 回向院で行われますから、そこからは近いですね。
関東大震災、東京大空襲の犠牲者の方々のための慰霊堂。小さな公園の中なので、喧騒から切り離された静かな空間、という訳には行かないものの、空気の重みはしっかり感じられる。
20年も時代が違っていて、本来ならまったく異なる悲劇である震災と空襲ですが、それらの身元不明の被害者が合祀されているのは、時代の流れを感じます。隣の復興記念館で見られるように、戦前も今と同じ色鮮やかで人びとが躍動する世界でした。私たちの生きる今というこの時代も、同じようにいつかは歴史の澱に沈んでいくのでしょう。しかしここにいると私たちはこの時代を精一杯生きて、過去から引き継いだものをまた未来に受け渡していくんだということを強く感じずには居られませんでした。
御朱印いただける。関東大震災と東京大空襲について深く考えさせられる場所。敷地内のイチョウをはじめとする紅葉はとても綺麗。
関東大震災、空襲で亡くなられた方々への慰霊施設です。すぐ近くに隅田川があり、また国技館にも比較的近い場所にありますので、足を運び追悼されることをおすすめ致します。敷地も広く落ち着いた場所です。
関東大震災における身元不明の死者を弔うため、昭和5年に官民の浄財により建てられた供養施設。建設には築地本願寺の建築で知られる伊東忠太が手掛けていて、独特の建築様式になっている。この様な災害が起こらない事を祈願し建てられたのだが、先の大戦末の空襲において震災の数倍になる被害が出てこれらの身元不明者も合祀している。前回来た時はよく知らずに眺めるだけだったが、今回はお参りしてきた。
慰霊協会事務所で御朱印頂けますが書ける人が不在の時は書き置きになります。震災や空襲で大勢の人達が亡くなった場所なので心を込めてお参りしてください。
1923年関東大震災があり罹災した人々は、墨田区民約38,000人以上東京全体で55.000人以上が死亡しその遺骨を、安置する場所を慰霊堂を建てた場所です。又太平洋戦争1945年の東京大空襲の約105,000人以上が死亡し1956年に東京都慰霊堂と名を変えてこの場所に安置しました。現在は、毎年3月10日と9月1日に慰霊法要が、行われています。
元々は陸軍の被服しょうがあった所。関東大震災ではここに避難した35,000人が焼死したそう。約6万人近い震災犠牲者を弔うために昭和6年6月に震災記念堂として建てられました。また第二次世界大戦の戦火犠牲者も合祀して東京都慰霊堂として改められた。拝殿は鉄筋コンクリート造りの、銅瓦葺きの和風様式
元々は震災で亡くなられた方々を追悼する施設として建てられたそうです。後に戦争末期の東京大空襲で被害を受けた地域でもありこの時に亡くなられた方々も一緒に追悼するようになり現在の名前になりました。震災は自然災害ですが戦争は人災であり二度起こしてはならないと切に願います。
慰霊堂内にある夢とうばで供養することができます
是非行くべきところです。忘れてはだめです。何より地震がなかったら日本はどうなっていたか。。。
方便品 自我偈 唱題させていただきました
小学生の頃、境内の広場で鳥籠を細工して土鳩をとりに本所の実家から友達5~6人で歩いてきていました。懐かしい思い出です。
素晴らしい建築。椅子も必見。
関東大震災で亡くなられた方の為の供養堂であり、独特な空間である。心から黙祷🙏
東京大空襲を知る場所。東京江戸博物館と合わせて訪問したい。
後世に伝えるためにも遺して欲しいレガシィです!
事務所で説明を頼むと丁寧にやってくれる。
帝都居住ならば行くべき。
建物はキリスト教のような教会になっているが中には仏教の仏壇があって不思議
関東大震災や東京大空襲の犠牲者を慰霊する施設です。
タバコ吸う人が邪魔です。