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吉良邸裏門跡
日本, 〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目10−1
外観
吉良邸裏門跡
コメント
Ke
件のクチコミ №1

何も残っていないので、ここから討ち入りしたのだと想像することだけです。

Ha
件のクチコミ №2

あちこちの名跡にあるプレートだけの表示。場所だけ示してもという気がするがそういうものなのか。

A
件のクチコミ №3

忠臣蔵シリーズ31番。現在はマンションが建つ。案内板のみ。

大前
件のクチコミ №4

日本の諸芸能にわたる種の地だから行くべき

神山
件のクチコミ №5

忠臣蔵で国家老・大石内蔵助の息子である大石主税が一団を率いて討ち入ったのが裏門だったというのは、映画やドラマで知っているけど、だから何なの?と言いたくなるな。墨田区はこの手の看板立てていったら看板だらけになるんじゃないのかな。この地図には載ってないけど、葛飾北斎旧居跡だとか、猿若座跡だとかけっこうたくさんあるんだよね。看板はもういらないんじゃないのかなぁ。

四兵
件のクチコミ №6

見事本懐を遂げたり赤穂浪士。意気も揚々、殿の御前に上野介の御首を捧ぐ。

sh
件のクチコミ №7

歴史や文化が好きな人にはいいのかな?看板があるだけです。

岡林
件のクチコミ №8

吉良邸の元の持ち主松平 信望 (まつだいら のぶもち、延宝2年(1674年) - 宝暦7年9月4日(1757年10月16日))は、江戸幕府の旗本。通称は玄蕃(げんば)、登之助(のぼりのすけ)。官位は従五位下駿河守。養子に松平信晴。大身旗本の松平信定の四男として誕生。元禄9年(1696年)8月13日、はじめて将軍徳川綱吉に拝謁。元禄10年(1697年)12月5日に父の隠居により常陸国新治郡5000石の家督を相続し、小普請旗本に列した。元禄11年(1698年)3月、遠江国山名郡・城東郡・豊田郡・周智郡に所領を移された。元禄12年(1699年)8月2日、小姓並みとなり、元禄13年(1700年)1月11日、正式に小姓となった。11月21日、綱吉の易経の講義に招かれて聞かされる。元禄15年(1702年)12月3日、従五位下・駿河守に叙任した。宝永6年(1709年)に綱吉が死去して徳川家宣・新井白石らが実権を握ると、小姓を解任されて寄合に列した。正徳3年(1713年)8月21日、定火消役としてお役目に復帰。享保2年(1717年)8月15日、御書院番頭に転じた。享保7年(1722年)2月7日、大番頭に就任した。享保9年(1724年)11月15日、将軍徳川吉宗の嫡男の徳川家重の側近となり、二の丸に入り、さらに享保10年(1725年)6月19日、家重に従って西の丸に移った。享保13年(1728年)4月に徳川吉宗が日光山へ赴いた際に、家重の使者として信望も日光山へ赴いた。元文元年(1736年)2月28日、病により宿直から外された。延享2年(1745年)9月25日から本丸勤務にかわったが、寛延元年(1748年)6月20日には高齢を理由に詰番の際にのみ登城するようになった。寛延3年(1750年)12月28日には年齢80が近くなった祝いに衣服に紅裏を着用することが許された。宝暦3年(1753年)10月9日、病を理由に職を辞することを申し出たが、許されなかった。宝暦4年(1754年)4月10日にようやく許しが出て幕府の職を辞した。さらに8月3日に隠居し、宝暦7年(1757年)9月4日に死去。享年84。武蔵国新座郡野火止(現埼玉県新座市野火止)の平林寺に葬られた。法名は玄微。

-こ
件のクチコミ №9

正門の立て札から裏門の立て札まで歩いて見ると一直線に結んだだけでも結構な距離があるので、吉良邸の大きさが想像できます。

Yo
件のクチコミ №10

吉良邸裏門跡だが何も残っちゃいません。立て札があるだけです。

Na
件のクチコミ №11

ここに裏門があったことを知らせる看板があるだけです、

R
件のクチコミ №12

討ち入り後、永代橋を通って泉岳寺へ。

やま
件のクチコミ №13

物足りなかった

JU
件のクチコミ №14

広い屋敷だなぁ

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57 写真
14 コメント
3.1 評価
  • 住所:日本, 〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目10−1
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