百本杭とは、総武線鉄橋あたりの隅田川の湾曲した東側の部分に打たれていた護岸のための杭で、ここからほど近い川中にありました。川の流れを和らげて、土手を保護する役目を貧っていました。その辺りは、明治中頃までは鯉の釣り場として有名で、釣り好き幸田露伴もよく出かけたといわれています。その風景も見事だったため、広重の「東都名所」にも描かれていますし、最後の浮世絵師といわれる小林清親が「千ぼんぐい両国橋」や「東京両国百本杭暁之図」として、浮世絵に描いています。また、歌舞伎の「色街模樣新色縫」の「稲瀬川百本杭の場」で、かなわぬ恋をした二人が身を投げて、心中する場所とされています。<別の紹介版より>両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和五年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隔田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、救多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。彩しい致の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戶時代の歌登伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本杭の場」が登場します。「十六夜清心」でも、母頭に「柏瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この面が実は隅田川を降台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本杭を示しています。明治三十五年(1902)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所例の岸の川中に張り出でたるところのをいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本杭の辺はまた特に深し。ここにて鯉を約る人の多さは人の知るところなり」と富士見の度の南側から見られた様子を振っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記他について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で始どの杭は抜かれ、百本杭と同田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。平成二十三年三月 墨田区教育委員会
かつてこの辺りの隅田川に護岸のための杭がたくさん打ち込まれていたそうです。その風景が見事だったため広重の浮世絵などにも描かれているそうです。