大塚本陣は桑名宿で最大かつ最高の格式をもった本陣※で、裏庭から直接乗船できました。…七里の渡しの鳥居の程近い場所…現在…建物は変わっていますが、こちらは明治時代から料理旅館【船津屋】として営業しています。江戸時代は参勤交代のお殿様…明治以降も文豪や政治家、数々の著名人が宿泊した船津屋。その船津屋の壁をくり抜いたスペースに、歌行燈句碑がどどーんと鎮座していました。風化が激しくて…近付いても何書いてあるのかわかりません💦…………………………………………………………………………………〜以下、説明ボード丸写しですが〜歌行燈句碑(うたあんどんひ)かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万明治の文豪・泉鏡花(1873~1939)は大泉原村(現いなべ市員弁町)の高等小学校で講演するため明治42年(1909)11月に来桑、ここ船津屋(東海道桑名宿大塚本陣跡地)に宿泊した。この時の印象を基にして、小説「歌行燈」を書き、翌年一月号の「新小説」に発表した。昭和14年(1939)、東宝映画から依頼を受けた劇作家・久保田万太郎(1889~1963)は船津屋に泊まり、三ヶ月ほどで戯曲「歌行燈」を書き上げた。昭和15年7月に、まず新生新派により明治座で上演され、昭和18年に成瀬巳喜男の監督で映画化された上演・映画化にあたり、万太郎は手直しのため再度船津屋を訪れている。船津屋は当初から格式高い料理旅館だったが、小説では湊屋と書かれ、裏河岸から「かわうそ」が這い上がってきて悪戯をするという噂話が登場する。俳人としても著名だった万太郎が、船津屋主人の求めに応じてその情景を詠んだのがこの句である。自筆のこの句碑は揖斐川上流の自然石を杉本健吉画伯がデザインしたもので、昭和31年6月に建てられた。平成18年6月 寄贈 桑名三田会…………………………………………………………………※本陣(ほんじん)とは、江戸時代以降の宿場で、身分が高い方々が宿泊したホテルです。大名や旗本、幕府役人、勅使、宮門跡の方々のご利用です。別名「大旅籠屋」(おおはたごや)とも言われています。原則として一般の者を泊めることは許されておらず、営業的な意味での「宿屋の一種」とは言えないようですね。宿役人の問屋や村役人の名主などの居宅が指定されることが多かったようで、本陣に次ぐ格式の宿としては脇本陣がありました。□聖地・ロケ地★★★★★【歌行燈】の聖地です✨□アクセス★★★〜桑名駅から七里の渡跡までの所要時間〜《徒歩》桑名駅東口より徒歩約18分《バス》「本町」で下車、徒歩約5分船津屋は七里の渡しの鳥居から程近い場所にあります。
塀がくり抜かれて句碑が見れます。丁寧な説明板があるので助かります。
〔七里の渡し場跡〕近くに歌行燈句碑が建っている。かはをそに火をぬすまれてあけやすき 万久保田万太郎は、泉鏡花の小説「歌行燈」を戯曲化するため、船津屋(小説中の「湊屋」)に泊り、3か月で書き上げたという。句は、昭和18年(1943)、「歌行燈」を映画化する際、再度訪問したときに詠んだもの。
句碑自体の文字は読めませんね!
ボロボロすぎて字が読めません~( ´∀` )