赤坂見附近くのお堀に架かリ、交通の要でもあり人通りも車の往来も激しいが、お堀に浮くボートや釣り堀を見ていると、ここだけは時が止まったように、ゆったりした光景に心安らぎます。この橋は明治22年、東神田にあった橋の廃材で架けたもので、130年を越す歴史があり明治、大正の頃は東京の名所だったようです。今は鉄筋コンクリート制になったものの欄干の擬宝珠に往時の名残リを感じます。江戸城普請の大工の棟梁であった弁慶小佐衛門が架けたことから弁慶橋の名がついたと伝えられています。歴史にまつわる弁慶橋は、春の桜、冬の雪景色の頃、一幅の絵を見るような美しさです。
近くにあった説明板には下のように書かれてます。この橋を弁慶橋といいます。橋が架かっている弁慶堀とともに、「江戸城外堀跡」として文化財指定されています。ところで、ここには江戸時代は橋は架かっておらず、人々は堀沿いに東に進んで赤坂門を出なければなりませんでした。ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(1889)のことです。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。和風の美しい橋の姿は、春の桜・冬の雪景色を背景として明治以来東京の名所として親しまれ、絵葉書や写真・絵画の題材となっていました。現在の橋は、昭和六十年(1985)12月に改築されたもので、全長41.06m、幅22mです。架け替え前の弁慶橋には、親柱にそれぞれ擬宝珠がありました。筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋の古い擬宝珠を集めて被せてあったといいます。現在は、それら古い擬宝珠は用いられていません。
弁慶橋ボート乗り場や釣り堀も有って老若男女誰もが通いたくなる場所です。
赤坂から紀尾井町に向かって、お堀(弁慶堀)に架かる橋。橋の名を聞けば、義経と弁慶が東下りした伝説でも絡んでいるかと思うが、実在も疑われる弁慶だし、北陸経由で奥州藤原氏に身を寄せたそのルートを考えても、江戸に足跡はもちろんない。ネット情報等によれば、江戸城普請の縄張り(「勢力圏」のことではなく、建築物の土台の場所を定めるために縄を張る作業)にも携わった、京都(?)出身の大工の棟梁「弁慶小左衛門」が架けたのがその名の由来だという。国立国会図書館には『侠客弁慶小左衛門』なる講談速記本が所蔵されているので、読んでみたけれどあまり参考にならず。江戸築城期ということで、この人のほうが時代は古いが、幡随院長兵衛みたいな、人入れ稼業で男伊達という感じだったのかも知れない。
特に何もない普通の橋です。観光名所と言うほどのモノは何もありません。釣り堀があるので、釣りができます。何度も通ったことがありますが、一度も魚が釣れている姿を見たことがありません。同じ釣り堀なら、市ヶ谷の釣り堀の方が、人気もあって良いんじゃないかと。
ここに、橋が架けられたのは明治二十二年(1889)の事です。江戸時代、神田の鍛冶町から紺屋町・岩本町辺りを流れていた藍染川に架かっていた弁慶橋が明治十八年(1885)頃に廃橋となったため、その廃材を用いてここに橋が架け替えられ、弁慶橋の名を継承したといわれています。
弁慶橋 べんけいばしこの橋は、神田の鍛冶町から岩本町付近を流れていた藍染川にあった同名の橋の廃材を用いて1889年(明治22年)に新たに架けたものです。名称は、橋を建造した弁慶小左衛門の名に由来します。この橋にあった擬宝珠は、筋違橋・日本橋・一ツ橋・神田橋・浅草橋から集めたものでした。当時は和風の美しい橋であったため、弁慶濠沿いの桜とともに明治・大正期の東京の名所となっていました。1927年(昭和2年)に架け替えられ、現在の橋は1985年(昭和60年)に改架したコンクリート橋です。緩やかなアーチの木橋風の橋で、擬宝珠や高欄など細部に当初の橋の意匠を継承しています。【千代田区説明掲示板より】赤坂見附と紀尾井町を結ぶ由緒ある橋
赤坂見附からすぐの所にあります。夜は雰囲気もありますね。
紀尾井町ガーデンテラスの桜のライトアップを見れる橋です此処から見るライトアップは川に反射してとても綺麗です!
桜のライトアップが見られます。