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上平寺集会所
日本, 〒521-0327 滋賀県米原市上平寺194
外観
上平寺集会所

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件のクチコミ №1

京極氏は近江源氏とも称された佐々木氏を源流とする。鎌倉時代に近江他数ヶ国の守護に任じられていた佐々木信綱は、四人の息子に近江を分けて継がせた。このうち、江北(北近江)にある高島郡、伊香郡、浅井郡、坂田郡、犬上郡、愛智郡の六郡と京都の京極高辻の館を継いだ四男の氏信を祖とする一族が後に京極氏と呼ばれるようになる。なお、この時に江南(南近江)を継いだ三男の泰綱は佐々木宗家を継ぎ、六角氏の祖となっている。長男の重綱と次男の高信も坂田郡大原庄と高島郡田中郷を相続、それぞれ大原氏・高島氏の祖となった。京極氏は鎌倉時代は江北六郡の地頭であり、鎌倉時代末期に当主となった京極高氏(佐々木道誉)は朝廷で検非違使、鎌倉幕府で御相伴衆を務めていたが、足利尊氏が倒幕の兵を挙げるとそれに協力し、建武の新政に加わる。北条時行らが中先代の乱を起こして鎌倉を占拠すると、道誉は尊氏に従い討伐へと向かい、相模川で時行軍の背後を奇襲し、勝利に寄与する。尊氏が鎌倉に入り幕府設立の動きを見せ、朝廷が新田義貞を総大将とする尊氏の討伐軍を発すると、道誉は尊氏軍として義貞軍と矢作川で戦うが敗れ、手越河原の戦いでは弟の貞満も討たれ、いったんは義貞に下るが、次の箱根・竹ノ下の戦いでは尊氏方として戦い勝利する。室町幕府が開かれると、道誉は創業の功臣として引付頭人、評定衆、政所執事、さらに近江・飛騨・出雲・若狭・上総・摂津の六カ国の守護を務めることとなる。京極高詮の代に京極氏は四職の一つとなり、以後の当主は出雲、隠岐、飛騨の守護に代々任ぜられ、侍所所司を務めることとなる。また、高詮の弟である高久は近江の尼子郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名尼子氏の始祖ともなる。もうひとりの弟である秀益は出雲の宍道郷を分け与えられ有力庶子家となり、後の戦国大名宍道氏の始祖ともなる。上平寺集落は1500年代初頭に築かれた京極氏の居城上平寺城の城下町であったという。先進地域の近江でも最も早い城下町の形成だった。現地に行くと、集落が梯郭式山城の一部を構成していることがわかる。

居場
件のクチコミ №2

京極家の住まいとお城、回りには城下町があり、大変見所があり、現地にいってたいけんしてほしいです。

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  • 住所:日本, 〒521-0327 滋賀県米原市上平寺194
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