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日本橋魚河岸跡
日本, 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1丁目8−1
外観
日本橋魚河岸跡
コメント
Ks
件のクチコミ №1

今では高速道路の陰になってしまいましたが、在りし日は運河として魚河岸があったようです。

飯野
件のクチコミ №2

日本橋の橋詰の室町側東には日本橋に魚市場があったことを示す「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。石碑の足元には「乙姫広場」と刻まれた石板が置かれ、石碑の脇には、乙姫なのでしょうか、女性の坐像があります。その脇に数段の階段があり、上ると日本橋を遠目に眺めることができる6畳間ほどのスペースがあります。花のハンギングバスケットが吊るされてちょっとした憩いの公園です。現在豊洲にある水産市場は、長く築地にあり親しまれてきましたが江戸時代から魚の市といえば日本橋でした。日本橋から築地に移ったのは関東大震災がきっかけだったということで、日本橋の街から魚の市場があった様子は全く見えませんが、この石碑だけがその歴史を示しています。

yu
件のクチコミ №3

広重 雪中日本橋の浮世絵(浮世絵)日本橋は江戸時代より日本の中心地橋の北詰に日本橋の魚市場の発祥の地碑が建っている。(写真)地碑の文言が古くて読みにくいので後で調べてみたら・・日本橋魚市場発祥の地本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる 日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み, 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後 慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以て, これを一般に販売するに至り, 漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ, 市場の形態漸く整ふ, さらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ, 従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり, かくしてやがて 明治維新の変革に堪へ, 大正十二年関東大震災の後を受けて, 京橋築地に移転せざるのやむなきにいたるまで, その間じつに三百余年, 魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として, よく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするをえたり, すなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの, われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず, ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。東京に江戸のまことのしぐれかな昭和二十九年三月,旧日本橋市場関係者一同に代わりて日本芸術院会員 久保田万太郎 撰日本芸術院会員 豊道慶中 書江戸初期から300年に渡り江戸市民の食卓を賄ってきた魚市場も大正時代の関東大震災の被害を受けて築地に移転したが日本の文化として記憶に残すためここに石碑を建てたとのことのようだ。広場というほどの広さではないが隅に窮屈そうに「乙姫広場」の標示があった。「おとひめひろば」と読むと像の人物は竜宮城の乙姫ではないだろうか。象の両側から魚の頭がのぞいている。どのような人物が発案して、作製したのだろうか。

Ta
件のクチコミ №4

日本橋には江戸時代から魚河岸、魚市場があり、江戸の発展と共に大変栄えたそうです。周辺には海苔や鰹節などの海産物の店ができました。今でも日本橋には海産物の老舗があります。魚市場は関東大震災後の東京復興計画で築地に移転しました。この場所は緑の多い、都心の水辺の小さなオアシスです。見晴台からの日本橋と船着き場の眺めも素敵です。シンボル像は乙姫様ですが、なんとなく逞しさを感じます。

sa
件のクチコミ №5

注:妖怪ババではなく乙姫です。はっきり言って魚市場発祥など、この石像の前ではさしたる関心事になりえない。

中村
件のクチコミ №6

嘗て日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いにあった魚河岸。江戸時代から約300年にわたり江戸の食を支えてきたが、大正12(1923)年の関東大震災では壊滅的な被害を受けて築地へ移転した。歴史を伝える魚河岸跡にも拘らず腰掛けるベンチもないのは浮浪者対策?

増田
件のクチコミ №7

碑と当時の画像を載せた説明板のみ。魚市場の面影はありません。

ht
件のクチコミ №8

日本橋魚河岸跡。江戸の発展とともに魚市場は繁盛。魚市場は朝千両、芝居小屋は昼千両、吉原遊廓は夜千両と言われた

Pe
件のクチコミ №9

江戸時代から関東大震災まで日本橋川を利用した魚河岸があった所。震災後、築地に移転。現在は碑が立っているだけ。

Ma
件のクチコミ №10

あんまり目立たないけどいつもしっかりと見ておきます。

Ko
件のクチコミ №11

関東大震災以前まで、ここに魚河岸があった。震災後、築地に移転。

Ta
件のクチコミ №12

像の裏側は小さな広場になっているがベンチもなく、休憩には向かない。

Se
件のクチコミ №13

意外と立派な碑が建ってました。

神山
件のクチコミ №14

浮世絵の東海道五十三次の日本橋の絵を見るとわかるが、大名行列の前を横切ると❬切り捨て御免❭が当たり前だった時代なのに魚屋の棒手振り(ぼてふり又は、ぼてうりと言った)が横切る姿が描かれています。冷凍技術が無い時代ということと、大名家もこの魚を買っていたので、魚屋だけが許されていたんだそうです。そのため、魚屋は威勢がよかったらしい。

五十
件のクチコミ №15

築地に移転する前はココに魚河岸がありました。

Te
件のクチコミ №16

地下鉄「三越前」駅B6出口を出ると、直ぐ左手に「乙姫広場」があります。そこは、五街道の起点となった「日本橋」のたもとで、乙姫広場には「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と案内板、そして、乙姫の像が置かれ、日本橋魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百年余りの歴史を伝えています。日本橋魚河岸は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、築地へ移転となったことで、300年余りの歴史に幕を下ろすことになりました。日本橋を覆っている首都高速道路は地下化計画により高架が撤去されるようなので、それを機にこの碑も今よりは目立つようになるでしょうか。

Na
件のクチコミ №17

東京が水運で支えられ、日本橋が魚河岸として栄えていた頃の様子がモノクロ写真で残されています。現代の洗練された都会としての日本橋は魚河岸から発展してきたんですね。現在の栄華は過去の礎の上に成り立っている。こういうものをちゃんと残しておくのがこの地の気質なんでしょうね。

hi
件のクチコミ №18

歴史に触れました。

Ja
件のクチコミ №19

乙女広場にあります。

高島
件のクチコミ №20

江戸時代には、江戸開府の頃に佃島の漁師森九郎右衛門が、将軍家御用の魚を納めた残りをこの地でうりだす許可をうりだす事に、場所は日本橋の北詰めから、東側迄魚市場で、遠近から船積された新鮮な魚が運び日夜市場が、賑やかでした。1923年の関東大震災後に築地市場に行った。その後2019年に 豊洲に行って、現在に至った。

AU
件のクチコミ №21

日本橋の魚河岸ってこのなのか!高速道路は地下にして欲しい

Mr
件のクチコミ №22

日本橋の歴史を僅かに感じられる場所です。高速道路がなくなれば、日本橋の再生が叶うと思う。

Mi
件のクチコミ №23

観光客の方々で賑わっていました。

安達
件のクチコミ №24

日本橋魚河岸跡です。しっかりと、区画を取って、知らされています。往来が盛んであった当時が、偲ばれます。

松下
件のクチコミ №25

銀座の歴史を知りたい時にきてほしいところ

滝沢
件のクチコミ №26

工事中!

豊島
件のクチコミ №27

地味ですが江戸の台所の跡って感じが好きです

yu
件のクチコミ №28

記念碑の裏に男女別の公衆トイレがあります(多目的トイレも有)。

七田
件のクチコミ №29

日本橋魚河岸跡

香月
件のクチコミ №30

ここに築地に移転する前の魚市場がありました。

su
件のクチコミ №31

三越前の日本橋近くにあります。説明板があるので、当時の様子がわかります。

Sa
件のクチコミ №32

普通

KA
件のクチコミ №33

今ではすっかり有名になったよね!

下町
件のクチコミ №34

江戸時代には千住のやっちゃ場から魚が運ばれて魚河岸がありました。

青い
件のクチコミ №35

たくましい乙姫像です。

社安
件のクチコミ №36

ここにあった魚河岸は関東大震災で築地に移転。

野口
件のクチコミ №37

関東大震災前まで、日本橋から、江戸橋辺りまで、魚河岸街が有った。

AS
件のクチコミ №38

ひっそりと碑がある。

ke
件のクチコミ №39

ここが?魚市場だったのか~

ta
件のクチコミ №40

ベリーグッド

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  • 住所:日本, 〒103-0022 東京都中央区日本橋室町1丁目8−1
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