日本橋の橋詰の室町側東には日本橋に魚市場があったことを示す「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた石碑が建てられています。石碑の足元には「乙姫広場」と刻まれた石板が置かれ、石碑の脇には、乙姫なのでしょうか、女性の坐像があります。その脇に数段の階段があり、上ると日本橋を遠目に眺めることができる6畳間ほどのスペースがあります。花のハンギングバスケットが吊るされてちょっとした憩いの公園です。現在豊洲にある水産市場は、長く築地にあり親しまれてきましたが江戸時代から魚の市といえば日本橋でした。日本橋から築地に移ったのは関東大震災がきっかけだったということで、日本橋の街から魚の市場があった様子は全く見えませんが、この石碑だけがその歴史を示しています。
広重 雪中日本橋の浮世絵(浮世絵)日本橋は江戸時代より日本の中心地橋の北詰に日本橋の魚市場の発祥の地碑が建っている。(写真)地碑の文言が古くて読みにくいので後で調べてみたら・・日本橋魚市場発祥の地本船町小田原町安針町等の間悉く鮮魚の肆なり, 遠近の浦々より海陸のけぢめもなく鮮魚をこゝへ運送して, 日夜に市を立て甚賑へりと江戸名所図会にのこれる 日本橋の魚市魚河岸のありしはこのあたりなり, 旧記によればその濫觴は遠く天正年間, 徳川家康の関東入国と共に, 摂津の国西成郡佃大和田両村の漁夫三十余名, 江戸にうつり住み, 幕府の膳所に供するの目的に漁業営みしに出づ, その後 慶長のころほひ幕府に納めし残余の品を以て, これを一般に販売するに至り, 漁るもの商ふものゝ別おのづからこゝに生じ, 市場の形態漸く整ふ, さらに天和貞享とすゝみて諸国各産地との取引ひろくひらけ, 従ってその入荷量の膨張驚くべきものあり, かくしてやがて 明治維新の変革に堪へ, 大正十二年関東大震災の後を受けて, 京橋築地に移転せざるのやむなきにいたるまで, その間じつに三百余年, 魚河岸は江戸及び東京に於ける屈指の問屋街としてまた江戸任侠精神発祥の地として, よく全国的の羨望信頼を克ちえつゝ目もあやなる繁栄をほしいまゝにするをえたり, すなはちこゝにこの碑を建てる所以のもの, われらいたづらに去りゆける夢を追ふにあらず, ひとへに以てわれらの祖先のうちたてたる文化をながく記念せんとするに外ならざるなり。東京に江戸のまことのしぐれかな昭和二十九年三月,旧日本橋市場関係者一同に代わりて日本芸術院会員 久保田万太郎 撰日本芸術院会員 豊道慶中 書江戸初期から300年に渡り江戸市民の食卓を賄ってきた魚市場も大正時代の関東大震災の被害を受けて築地に移転したが日本の文化として記憶に残すためここに石碑を建てたとのことのようだ。広場というほどの広さではないが隅に窮屈そうに「乙姫広場」の標示があった。「おとひめひろば」と読むと像の人物は竜宮城の乙姫ではないだろうか。象の両側から魚の頭がのぞいている。どのような人物が発案して、作製したのだろうか。
あんまり目立たないけどいつもしっかりと見ておきます。
浮世絵の東海道五十三次の日本橋の絵を見るとわかるが、大名行列の前を横切ると❬切り捨て御免❭が当たり前だった時代なのに魚屋の棒手振り(ぼてふり又は、ぼてうりと言った)が横切る姿が描かれています。冷凍技術が無い時代ということと、大名家もこの魚を買っていたので、魚屋だけが許されていたんだそうです。そのため、魚屋は威勢がよかったらしい。
地下鉄「三越前」駅B6出口を出ると、直ぐ左手に「乙姫広場」があります。そこは、五街道の起点となった「日本橋」のたもとで、乙姫広場には「日本橋魚市場発祥の地」と刻まれた記念碑と案内板、そして、乙姫の像が置かれ、日本橋魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百年余りの歴史を伝えています。日本橋魚河岸は大正12年(1923)の関東大震災で壊滅的な被害を受け、築地へ移転となったことで、300年余りの歴史に幕を下ろすことになりました。日本橋を覆っている首都高速道路は地下化計画により高架が撤去されるようなので、それを機にこの碑も今よりは目立つようになるでしょうか。
江戸時代には、江戸開府の頃に佃島の漁師森九郎右衛門が、将軍家御用の魚を納めた残りをこの地でうりだす許可をうりだす事に、場所は日本橋の北詰めから、東側迄魚市場で、遠近から船積された新鮮な魚が運び日夜市場が、賑やかでした。1923年の関東大震災後に築地市場に行った。その後2019年に 豊洲に行って、現在に至った。
日本橋の魚河岸ってこのなのか!高速道路は地下にして欲しい
日本橋の歴史を僅かに感じられる場所です。高速道路がなくなれば、日本橋の再生が叶うと思う。
銀座の歴史を知りたい時にきてほしいところ
地味ですが江戸の台所の跡って感じが好きです
記念碑の裏に男女別の公衆トイレがあります(多目的トイレも有)。
ここに築地に移転する前の魚市場がありました。
三越前の日本橋近くにあります。説明板があるので、当時の様子がわかります。
今ではすっかり有名になったよね!
江戸時代には千住のやっちゃ場から魚が運ばれて魚河岸がありました。
たくましい乙姫像です。
ここにあった魚河岸は関東大震災で築地に移転。
関東大震災前まで、日本橋から、江戸橋辺りまで、魚河岸街が有った。
ひっそりと碑がある。
ここが?魚市場だったのか~
ベリーグッド